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米軍機墜落の巻き添えで亡くなった母と二人の幼子

全身火傷で病院に運ばれた3歳の男の子は翌日「ちょっとでいいから、おサジいっぱいでいいから水ちょうだい、ジュースちょうだい」と言いながら「おばあちゃん、バイバイ」といって亡くなりました。

その4時間後です。同じく全身火傷で1歳の男の子も危険な状態になってきました。ついていたお父さんは子どもを勇気付けるために「パパと一緒にハトポッポの歌をうたおうか」と話しかけました。

「ポ、ポ、ポ、ハトポッポ…パパ…ママ…じいちゃん…ばあちゃん…」そう言って息を引き取ったそうです。

そして当時27才だった母親は全身の80%に火傷を負い、奇跡的に4年間の生き延びたものの亡くなりました。その母親の命日が昨日でした。

事故が起きたのは1977年9月27日、午後1時20分頃のことでした。
厚木基地を訓練のために午後1時17分に離陸したファントムが離陸直後横浜市緑区の民家に墜落したのです。

その民家ではこの27歳の母親、土志田和枝さんと義理の妹、そして2人の子どもがテレビを見ながらアイスクリームを食べていたそうです。

そんな普通の昼下がりの民家にジェット機が突っ込んできたのですね。

この事故で、この家にいた4人はそれぞれ即死を免れたものの重傷、さらに近隣の女性も重傷を負いました。そしてそのうちの3人が亡くなってしまいました。

もっともパイロットはパラシュートで脱出し大きな怪我はなかったそうです。

事故直後駆けつけた自衛隊のヘリコプターは被害者を置いて、この脱出した二人の米兵を運ぶだけで行ってしまったそうです。
(さすが、国民を守る自衛隊!)

4年4ヶ月間、火傷と戦った子供達の母親、和枝さんには当初子どもの死を知らせなかったそうです。「子どもの死を知ったら、きっと生きる気力がなくなる」というご家族の配慮だったそうです。彼女は子どもの世話をしてくれていると聞かされている実在しない家政婦さんに手紙を送っています。

「いつも主人や妹からそちらの様子を伺っております。あなた様は子ども達のめんどうを大変よく見てくださっているそうでとても感謝しております」

そして事故から1年4ヵ月後、症状が安定してきたところで子供達の死を伝えられたそうです。

この日の日記には。こう記されていたそうです。

「一月二十九日 私にとって一番悲しいことを聞かされた。
 裕一郎 九月二十八日 零時四十分 死亡
 康弘 九月二十八日 四時三十分 死亡」

その後、母親の状態は回復にむかって行くそうですが、転院した病院で自然呼吸が出来るようにと酸素を器官に通す管(カニューレ)を抜かれました。

その2日後あたりから和枝さんは不調を訴えます。
「呼吸が苦しい、助けて」

家族は「カニューレをつけてください」とお願いするものの病院側は「誰でも外した当初は苦しむものです。慣れます」と説明し、カニューレの装着を拒否し続けたそうです。

そしてその2日後の26日、和枝さんは亡くなりました。死因は心因性の呼吸困難とされました。

昨日、行われたのは「この痛ましい死を忘れるまい」というイベントでした。

吉岡しげみさんという歌手の方は詩人の詩に曲をつけて歌っているそうです。

その方が「君死にたもうことなかれ」や「わたしが一番きれいだったとき」などの詩を歌ってくださいました。

このお母さんと子供達の悲劇を忘れまい、とする「愛の母子像」が横浜の港の見える丘公園に建てられているそうです。

そして、この悲劇を語り継ぐことを自分の仕事としてきた和枝さんのお父さんが今月3日、82歳で亡くなりました。

(参考:米軍ジェット機で失った娘と孫よ/土志田勇/七つ森書館)


吉岡しげ美さん




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この記事に対するコメント

いわぢろうさん初めまして。この話は小学生のときに本で知りました。沖縄は今日は牛島長官と長参謀長が自決した「慰霊の日」です。父は戦後生まれなのですが、祖父母と兄姉は沖縄戦を経験しました。沖縄は前文のとおり戦争に負けてから米軍基地が作られたので↑の記事と似たような事件が頻繁に起こるので怒りと悲しみでいっぱいです。父である勇さんが亡くなる一週間前近くの図書館で「あふれる愛を継いで」という本を読みました。和枝さんは亡くなる直前夫と離婚しましたが、本に夫や夫の家族(和枝さん親子と一緒に巻き込まれた妹、夫と一緒に孫の死を看取りすでに亡くなってると思われる姑)のその後が書かれてなくてちょっと物足りなかったです。ちょうど平成に変わった年が息子の十三年忌だったことにも皮肉を感じます。和枝さんもまた戦後に生まれたのに平成まで生きられず本当にかわいそうです・・(和枝さんの夫のその時の気持ちを知りたかったです。)
沖縄人 | 2008/06/23 10:25 AM
沖縄人さま
コメントありがとうございます。

表に出ないのはおそらく色々な事情があるのでしょうね。

でも事故がなければそういった事情もなく幸せに過ごしていたのだと思うと本当に悲しい事件です。

軍隊は誰も幸せにしないですね。。。

あ、ラムズフェルドとか、ブッシュは幸せかもしれない。。。

クズですが…。
いわぢろう | 2008/06/26 12:41 AM
別の記事でコメントを書いている人が多かった中お返事どうもありがとうございます。
30年立ったいまでもあの時と同じで米軍機は沖縄や神奈川の空を飛び続けているので遺族の悲しみは永遠に消えないでしょう。
その平成に変わった年に生きてたら2人とも中学生だったと思うと・・
沖縄の基地は北海道に、そして神奈川の基地は全部熊本に移転すればいいと思いました。
熊本人には基地があるところの苦しみ、遺族の悲しみなんてわかりませんから・・
沖縄人 | 2008/06/27 8:45 PM
沖縄人さま
出来るなら基地はないほうがいいと考えます。
どうしても必要なのであれば、少なくとも人口密集地は避けるっていうのは常識なのだと思います。けれどもおそらく面倒だし移転にお金もかかるので従来の方針を転換しないのでしょうね。

なんだか間違っていると思います。
いわぢろう | 2008/06/30 10:43 PM
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